Being Nagasaki~ 日本バプテスト連盟 長崎バプテスト教会 ~                           English / Korean / Chinese

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「私の体験」 田浦 静

 「悪夢のような瞬間」とか、まるで「地獄絵巻を見るような」とかそういう言葉を今迄何度か口にした。又そう言う人があっても安易にうなづいたりしたものだった。しかしそれは飽く迄言葉の表現でしかなかった。それがあの八月九日暑い長崎の真夏の昼の空にキラメいた死の閃光を浴び、自分の目で実際に地獄絵巻を見ようとは……。投下直後

 あの瞬間私は東山手十三番の活水高女(現活水短大)の表玄関に立っていた。当時私は活水高女報告隊の班長として飽浦町の三菱造船所組立工場に生徒と共に動員中だった。そして生徒への報償金の会計係をしていた。戦局が段々押しつまって来ると会計簿をひろげるときまって警報が出て、あわてゝ工場内の防空壕に待避する、という状態が続いて仕事が一向にはかどらなかった。

 たまたまあの日、即ち八月九日の朝は、出勤の時間をわざと遅らせて学校で会計の計算をし、出来上ったら工場へ急ぐ積りであった。

 その中緊急職員会議の召集があり、校舎内の燃え易い物等を一応校庭の隅に搬出することになった。早速職員生徒全員で作業に取りかゝった。但し体育館内で工場の仕事を作業中の専門部の学生達はそのまま作業を続けていた。作業中警報が出た。一旦中止して急ぎ校庭の防空壕に待避した。

 間もなく解除。ヤレヤレ。私は又会計簿をひろげた。その中又爆音を聞いた。変だなと思った。誰かゞ味方の飛行機だといった。何だか不思議な気がして表玄関迄出た。そして空を見上げた。その瞬間だった。

 玄関前の池の近くでピカッと光った、と思った途端ドカン!と大音がした。さしもの活水がグラグラッと揺れた。ザァーと音を立ててガラスの破片が壁のかげにしゃがみ込んでいる私の上に、雨のように降って来た。私はいつ玄関から内に逃げ込んだか自分でもわからない。日頃の訓練通り両手で目と耳をちゃんとおさえていた。

 間もなく夢から覚めたようにパッと立ち上がり防空壕にかけ込んだ。皆蒼ざめてつい今しがた受けた恐ろしい体験に震えていた。三日前に広島に落とされた新型爆弾と同じものだと誰かゞ言ったが、その新型爆弾が原子爆弾だという事を知ったのは大分後になってからであった。

 私は急いで学校の下付近の我家に帰ってみた。爆風よけに戸障子類は開けっぱなしの毎日であったが、それでも無惨にも爆風に吹き飛ばされたガラスの破片で家の中は足の踏場もなかった。一番奥まった部屋の隅に飼猫が死んだようにうずくまっていた。爆風を受けたのか、さぞかし恐かったことだろうと憐れを覚えた。

 父は家の外で白いフワフワとした物を見た途端爆風によろけて倒れ、かぶっていた帽子はどこかに吹き飛んで行ったそうだ。とにかく無事を喜こび、学校の防空壕に連れて行った。(ついでだがこの父は晩年ガンの手術をした。又、三菱造船所勤務中の兄は工場内で被爆、負傷して包帯姿で一週間後に帰ってきた。この兄も晩年ガンで死亡した。そして私自身もガンの手術を受けた。)

 其の夜は学校の防空壕で一同と共に明かした。市内は火の海になっていた。A先生は自宅の辺りが燃えているのを見下ろしてじっと泪をこらえておられた。その心中を察して同情したがどうしてあげようもなかった。

 一夜が明けた。文字どおり悪夢は覚めたが私の前に繰り広げられるそれからの毎日はほんとうにダンテの地獄篇もかくやと思うものがあった。

 其の日から活水は衛生班が駐屯した。負傷した市民が治療を受けに続々と坂を上って来た。いつの間にか服ははぎ取られ、まるはだか同然の体は火傷で赤く焼け爛れ、被爆の物凄さを語っている。

 衛生兵は四斗樽に溶いたうどん粉に似た白いドロドロの薬を手早く患部に塗ってやるそれ以外の手当は此場ではなかったようだった。原爆を全身に浴びた火傷の人達はとても助からなかったかも知れない。活水のY先生の甥になる二人の小さい坊やが連れて来られた。見ると鼻の下辺りに小さい火傷があった。全身やけどの人を見ている私にはこれはほんのかすり傷位にしか見えなかったのに、可哀そうに間もなく二人とも感じ死亡された由。Y先生は自分の手で幼い犠牲者をだびに付されたそうだ。

 さて、私達職員は夫々受持生徒や知人を探しに出かけた。工場出勤中でも三菱造船の飽ノ浦に出ていた者は意外にも無事であったが、三菱兵器に出ていた学校の生徒達は殆ど全滅に近かった。活水高女は始めから飽ノ浦工場で配置変更があった時も活水は動かなかった。一所に並んで作業していた他の高女が兵器に移った時は一種の抜擢と思えて羨やんだものだった。その学校の先生も生徒も多数被爆死された。み霊よ安かれ!!

 丁度其の頃工場内で作業中ケガをして自宅療養中の生徒が私の組にいた。私はK先生達と一所に救護所廻りを始めた。

 丘の上の活水から一歩町におりてみて、あゝ私が見たものは!!梅ヶ崎通りの活水の崖の下に強制疎開の古材木を積上げて死体を焼いている。何とも形容のしようもない悪臭が風と共に四散する。四海楼の近くでも焼いていた。

 大学病院迄の道は家族、知人の安否を尋ねて重い足どりの行列が行く。自分もケガをしてどろに汚れた人達だった。一面焼野原の中に水道の鉄管がニョッコリ立ってタラタラ水が流れていた。

 浦上の水は絶対飲むなと注意されていたが、誰かと通りかゝりの人が飲んでいた。病院の近くに来ると我慢の出来ない程臭く息苦しさを感じた。それは坂の途中に馬が死んでいたその屍臭だった。可哀そうな犠牲者は断末魔の苦しみをそのまま残した姿勢で横たわっていた。

 病院の坂の登り口には沢山探し人の立札が立っていた。有名な薬屋のAさんの名も出ていた。活水出身で私の組だった。東京から疎開勉学中でこの大学病院に来て薬剤士の勉強中だった。あゝこの建物のどこかに埋まっておられるのか。

 坂を昇りつめた土の上に悲しい物言わぬ方々がきちんと並べられていた。私は勇気を振って一人一人顔を見て廻ったが、どれも小さく茶褐色にちゞまって男女の別もわからなかった。
 次の救護所、山里小学校に行った。どこの辺りかわからないが一面の焼野原の真中にたった一つ白い土蔵が焼け残って立っていたのが非常に印象的だった。

 さて山里小の入口で若い医学生から中に入るのは止めたがよいととめられた。余りの無惨さに貧血を起す女子が多いからと。私はすでに貧血気味だったがK先生と一緒に敢て中に入った。一部屋ずつ一人ずつ床に寝ている被爆者をのぞき込んで廻った。ここには生きている人と死んでいる人が隣り合って寝ていた。床の上に起きている病人もいた。死人にはハエがたかり、小さくうごめく物はウジだった。その隣りの寝床の上では起きて何かたべている女の人がいた。鉄カブトを食器代りにしていた。

 あっ赤ちゃんを抱いているお母さん!!でもよく見ると顔にウジが這っている。もうすでに事切れているのか?赤ちゃんはまだ生きているらしい。何という残酷な話だろう。誰もどうにもしてあげられないとは。不幸なこの母と子は探しに来る家族もすでに此世にいないのかも知れない。
 私達はやゝ声を高く「活水の生徒はいませんか」と尋ねて廻った。そうしたら答があった。あゝよかったと思ったらその人は私の見覚えのない人だった。頭の毛をクルクル坊主にされて寝ていたが若い女学生だとわかった。

 英文科の一年、I先生の組で自分は大した事がなく明日は家に帰るのだとニコニコとしっかりした口調で言った。私達は励まして上げた。(I先生は私達の報告を聞いて翌日早速彼女に逢いに行かれたが、其の後間もなく息を引き取ったそうだ。)

 たしか二階に上って又大声で活水の生徒はいませんかと尋ねた時、又応答があった。「あそこに寝ている人がそうらしい。」と。私は近づいて行った。そしてそこに私が探していたMさんを発見したのだった。組立工場で作業中ケガをして工場を休んでいたMさん自身だったのだ。
 「先生アツイ!!足が天ぷらされるようにアツイ」と訴える。きっと両足を火傷したのでしょう。
 「お父さんとかお母さんが直ぐ迎えに来る」と語った。あゝよかったと私が喜ぶと近くにいた人が気毒そうに「この人は頭が変になっているのです。両親は家と共に死亡、子供達だけ助かったが、下の子から順に一昨日、昨日と息を引取り、この人が最後に残っているのです」と教えて下さった。Mさんはうつろの目と苦しい息で色々と被爆の状況を話している。どこ迄本当なのか、合づちを打って話に聞き入るより外に何もしてあげられなかった。

 いつの間にか夜になっていた。「早く治くなってね」と後ろ髪をひかるゝ思いでここを去る事にした。可哀そうだがこれ以上こゝにいたらそれこそ私も倒れてしまうような疲労困憊を覚えた。「先生行かんで」と止めた彼女。

 私は泣いた。これが彼女との最後の別れとなってしまった。ご免なさいMさん!!そっと部屋を出て階段を降りると隅に汚れたまゝの便器が置いてあった。鉄カブトだった。

 尚後でK先生から聞いた話では、自宅の近所にMさんの親戚がいるのを連れてMさんを引取らせて下さったそうだ。しかし遂に彼女は天国に行ってしまった。もう天プラされるようなアツイ苦しみも永遠に無いだろう。

 帰途はいかにも足どり重く心身共にぐったりとなって電気のない死の町と化した長崎の夜道をK先生とトボトボと歩いて帰った。想像を絶した今日の昼間。そしてこの夜は又何とも言いようのない暗い悲しい夜だった。一面焦土と化した浦上にあちこちポーッと明るいのは死体を焼いている火のようだ。何だか「あの世」を歩いている気がした。駅の近くになってガスタンクが燃えていた。タンクではなく石炭の山が燃え続けていたのだ。この火は不思議にも恐怖心を呼ばなかった。

 家にたどり着き畳の上に横になっても仲々寝付かれなかった。夜風がどこかで焼いている火葬の臭を運んで来て息苦しかった。
それから二、三日して山里町のT先生の焼跡に行った。時々訪問したあの広い家が跡形もない。

 浦上は一番大丈夫といって別に疎開もしなかったご自慢のピアノが焼け失せて、只おどろに乱れた琴線が不気味に焦げて残っていた。生前のT先生を思い出し感無量だった。
付近の路端にはまだ死体が転がっていた。小さくなっていて大人か子供か、男か女かもわからなかった。合掌。

 此世には"生き残り"というものがいる。周囲の誰かれが死ぬのに自分だけ生きて残る人のことだ。原爆で死なない人はまさしく生き残りといってよいだろう。運がよかったのだ。
 長崎には生き残りの人が沢山いる。実際にその目で見た人達だ。そして戦争に用いられた恐るべき凶器の威力を認めたのだ。生き残りは絶対に二度とかゝる戦争が起らないよう証人とならなければならぬ。

 昇天のみ魂よ安かれ!!


〈一九七二.八.三一〉(長崎教会)

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